徒然

読書

藝術、アート、そして表現
このところのそれらをめぐる様々な報道に触れながら、惰性のように使い、捉えている言葉そのものを再考してみたくなって、この秋は「美学への招待」という1冊を移動中の隙間時間に少しずつ読んでいる。

美学への招待 増補版 (中公新書)

美術、アート、美術館にミュージアム
なんとなくわかっているようで、そのなんとなくのまま言葉を使い
あるいは、文や語りから意味を捉えている
それは美に関してだけでなく、日常のあらゆる場面で。

自らのうちの言葉を問う。
そこから考えていきたい。

ただ、言葉はきっと
対立するために生まれてきたのではなく
共に暮らしていくために生まれてきたのだろうと思う。

kids.gakken.co.jp

 

心躍るから動く

3ヶ月になって今の孫の楽しみは拳をしゃぶることのようだが、視覚も随分と発達してきたようで、メリーのような動くおもちゃには、その興味関心や喜びがそのまま身体の動きになって表れるかのように大興奮している。

私はそんな動きの発露の仕方が、とても尊いと思う。

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 受講者の方から可愛いベビー服やお手製のスタイを頂戴した。
ありがとうございます!

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見ること、動くことと発声

すっかり乳児の観察メモの様な記事ばかりになってしまっているこの頃だが、今改めてリアルタイムで発達の過程を眺められるのは本当に貴重な経験だ。

まだ頸はすわっていないが、うつ伏せになった時の頭の持ち上げ方はだいぶ大きくなってきた。

この頃クーイングも多くなったが、観ていると「見ること」「動くこと」が発声を促しもしているように感じられる。そして発声という体験を楽しんでいるようでもあり、ちょっと違った声が生じたりすると、目を大きく見開いて自分の声に自分で興奮していたりもする。

日々、動きが、そして声が生まれてくるとでもいうのだろうか。
そうしたことの一つひとつが、なにやらとても尊く感じられる。

この時期の赤ちゃんの声道は、大人のそれをただ縮小したようなものではなく、独自の特徴を持った形状なのだそうだ。

 

子どもの声道発達と音声の特性変化https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasj/68/5/68_KJ00008046027/_pdf

f:id:blissfultouch:20190919174601j:plain興味を持つと手を伸ばしてはくるが、まだ手のひらを開いて掴むという段階ではなく、(たまたま掴んでしまうことはあるが)基本はパンチのような動きだ。その手の伸び具合や、対象にヒットする確率も少しずつ変化してきている。

 

原色の物や人の顔にはやはりよく反応する。
今は「舌を出す」動きがお気に入りらしく、自分でもよく出しているが、それを真似すると微笑む様な表情になったり、手足の動きが活発になる様だ。
こちらが口を大きく開けると真似するような時もあり、おかげで彼と過ごす時間はこちらも変顔のオンパレードだ(笑)

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Prereaching Movement

生後しばらく経ち「見ること」も少しずつ発達してきた孫、
昨日は娘が「自分でおもちゃ鳴らして大興奮」とのメッセージと共に、その時の動画を送ってくれた。

まだ未熟な動きだが、確かに手を伸ばしてはオモチャを鳴らす、揺らすという体験を目を丸くしたり、手足をバタバタさせながらの大興奮で繰り返している(笑)

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ちょっと前まではそれが自分の一部であることを
しゃぶって確かめているかのようだった手
おそらく最初は偶然に近くにあったおもちゃに触れたのだろう
自分の身体、触れる感触、音
そして心が向いた方に自分の手が動くということ
動かした手が何かを動かせるということ
それらがその瞬間結びついて
彼の世界がまた少し広がった時の嬉々としたものが
そのまま全身に表れるような姿や
驚きに満ちたような表情に感動した。

 

主体的に学ぶということの萌芽
私たちはきっとこんな風にして
自分とそれを取り巻く世界に出合ってきたのだ。

 

 

秋の窓

秋の窓

住宅の窓、電車の窓
昼間はただ建物や乗り物として目に映っているものが
そこから溢れる光の一つひとつの内の
それぞれの日々の暮らしとして映る。

どこかへ行こうと目的に向かって歩いているときとは
ちょっと違う眺めや感触が
ふと立ち上がってくるような隙間の時間に
むしろ生きている事の手触りがあるような気がする。

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私もまた、一つの窓越しに
昨夜は中秋の名月を眺めた。

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アーハン・マンサウィラット

タイ語の短文を作る宿題で日本の精進料理について書いたことから、タイのベジタリアン料理についての話題に発展し大いに盛り上がった。

タイ語の先生が貸して下さったこの本は、ベジタリアンでも動物性の食材やにんにく、ねぎ、にら、らっきょう、あさつきといった五葷(臭気の強い五種の野菜)を使わないアーハン・ジェー(อาหารเจ)ではなく、卵や乳製品、ネギやにら、蜂蜜なども使うアーハン・マンサウィラット(อาหานรมังสวิรัติ)のレシピが紹介されたものだ。

私はベジタリアンではないけれど、野菜やハーブの美味しいチェンマイで過ごす時間は、それらを存分に活かした料理を作る愉しみも増やしていきたいと思っていたので、とてもありがたい。

写真やイラストも美しく、レシピについてのシンプルでわかりやすいテキストで、先生がおっしゃるには、このแสงแดด(sɛ̌ɛŋ dɛ̀ɛt/日差し・日光の意)という出版社から出ている本はオススメなのだそうだ。

英語で書かれた本や、e-bookも出版されている。

www.naiin.com

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豆腐や湯葉を用いたメニューも多く、沖縄の島豆腐や日光湯葉などを使えば日本でも色々と楽しめそうだ。
ベランダのホーリーバジルもすくすく育って、この夏は随分とガパオメニューが食卓に登場したが、次回はこの本で紹介されている豆腐と湯葉を使ったガパオ(写真右上)にトライしてみよう(^^)

嵐の晩の読書

嵐の前の夕暮れ時、早めに閉めた雨戸越しに花火の音が聞こえてきた。
こんな時に?と訝ったが、神社の例大祭の一環の花火でもともと15分間位を予定していた様なので、予定通り実行されたのだろう。夜空に打ち上がる花火が、台風の厄災を祓ってくれます様にと祈る様な気持ちも覚えつつ、その音を聴いた。

 

3時過ぎ、風の畝る音に目覚め、なんとなく寝付けなくなったので、久しぶりに長田弘氏の本を開き、その言葉に触れた。

read.amazon.com

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そうした戦後の体験が、今日それぞれが暮らしにもつ現在の思想のどんな土台となってるだろう、もしかしたら手抜きした土台のうえに家をもったままというのが、わたしたちの現在のありようなのじゃないか。

その土台にいよいよ直面しなければ立ち行かなくなってきたのが、今の時代である様にも思う。でも多分、そうした土台は思考の中で言葉を踊らせるだけでは築かれていかない。生きている自分の身体というものの土台を建て直しつつ、他者と、或いは環境と関わっていくことが、一個の自分としてそれを稽えるスタートなのだと感じている。

 

台風一過の朝。

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生後2ヶ月

先日孫の様子を見に行った時から数日して、何やら急にダイナミックな寝相になって、いつの間にかずり動いて90度回転していたりもしたそうだ。

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わずかな間にも随分と追視をするようになってきたんだなと、先月末に娘から送られた写真を見ながら思っていたが、今日10日ぶりくらいで様子を見に行ってみると左右を向く際の首の動かし方も前よりだいぶ力強くなっているように感じられた。

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視ることに誘われるように新生児の頃の布団の上で身体を滑らせてのクネクネとした動きから、重心を少し移し、重さから解放された側の手足を持ち上げて大きく動かすような動きも見られたりと、その動きの質も視覚や体幹の筋肉の発達とともに徐々に変化してきているようだ。

それはダンスを踊っているようでもあり、バランスの変化を楽しんでいるようでもある。

視ることと動くことは、こうして足並みを揃えながら育まれてきたのだということを、改めて感じたりもした。
(スマホの画面に注意を奪われたりと、オトナになる程にカラダが置き去りになったりも^^;)

重力との付き合い方を自ずと学んでいくその姿は見ていて飽きない。

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ご機嫌な時にはクーイングも始まり、今日は会話の原型のようなやり取りを楽しませてもらった。

アー、とかクーとか言った発声でも、何かそれに応えたくなるような衝動は起こるものだし、それに対してまた声が返ってくるというシンプルなやり取りはやはりコミュニケーションの原点なのだろう。

 

再学習

「微笑み」という身体に表れるものや
「マイペンライ」という言葉にまつわる
以下のような記事があった。

 

www.link-gs.co.jp

 

ここに書かれている
・日本人が理解できない微笑み
・日本人が戸惑う「マイペンライ」
のような誤解の場面は
暮らし始めた当初は確かにあった。


何で今笑ってるの?
何であなたが「大丈夫」というの?
そんな苛立ちや、戸惑い。


自分がその時点で知っていた
マイペンライという言葉の意味や
笑顔が持つ意味を持ってそれを捉え
「コー・トート(ขอโทษ)」という
これもまた当時知っていた言葉や
申し訳なさそうな顔によって
日本人なら、こう表されるであろうというような場面で
それとは違う反応に出会ったとき
自分が持っている世界の概念を疑うことができずに
「何で」という問いの部分が
置き去りになった故の行き違いだ。

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言葉や、それに伴って持っている概念に
どれだけ縛られているかということを感じるのは
ナチュラリゼーションもまた同様であるように
語学に限ったことではない。

違う国の言葉を長い年月を経て再学習していて
言葉を知るということ以前に
自分がその言葉や
それによって捉えたり、くくっているいる世界を
いったん脇に置いたり
分かったように思っていることを
疑ってみることの大切さを
以前学習したとき以上に感じるのは
多分、暮らしていた時代以降に
経験してきたことに寄ることもあるのだろうと思う。

自分が縛られている枠組みに
風穴を開け続けて行くことが
学ぶことの面白さでもある。

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