彼女自身が彼女のトレーナーのように。

まず「蹲踞のワークを久しぶりにやってみようか?」とだけ話して

その様子を黙ってビデオに撮った。

次に、昔のビデオからの写真を見せた。

「あ〜!」とちょっと懐かしそうな笑顔にもなりつつ、

今と何が違うのかも捉えているのが、その表情から感じられる。

そして今日の動画を見せる。

それを見た彼女は自主的にまた蹲踞のワークをし始める。

何も言わなくても、動画を撮った時より動きがよくなる。

 

1年以上やってこなかったワークだが

今どこに問題点があるかを見て取り

どうしたらそれが変わるのか

それからの時間の中で重ねてきたことから

結びつくものがあったのだろう。

 

まるで彼女自身が彼女のトレーナーのように。

子どもたちが成長するほどに言葉がいらなくなる。

 

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どれだけできるようになったかより

自分で自分を成長させていく能力を

彼女が育んできたことが嬉しい晩だった。

 

事後性

初冬の海が見せてくれる、束の間の荘厳な眺めをレッスン前の時間に楽しんだ火曜日。

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今回はズリバイとダイナミックアーチのワークを少し多めに行った。

多分、やっている時のご本人にはあまりわからないのだろうと思うけれど、ズリバイや腹ばいで進むダイナミックアーチのワークをし続けていると、そのワークの時間の間だけでもどんどん脚のラインや、ヒップライン、足裏の働き方が変わってくる。

ただ、それが「身に付く」までにはやはり時間がかかる。
そして、それらは常に更新されていくということや、更新されてから、もっと大きな括りでの成長に気付くということを経験してきているから、ある程度ナチュラリゼーションを続けてきた方々は、その場その場での正誤やできた・できないに余り囚われなくなってきているように思う。

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そうした、いわば「事後性」もまたナチュラリゼーションの一つの側面なのだと思う。

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100年住宅を建てる時のような基礎を

先日、ある生徒さんのお父様と少しお話しする機会があった。
建築士のお仕事をなさっている方なので、「基礎」に対するお考えには共鳴するところが多々あった。

僕は娘がずっとバレエを続けていくのかどうかはわからないけれど、娘に100年住宅を建てる時のような基礎を育む時間を贈りたいのだ

と。

そうした基礎というのは分かりづらい、見えにくい
実際住んでいる住人だって
暮らしの中でそれを意識することもないかもしれない。

多くの場合他人が評価するのは目に見える「ウワモノ」だが
いざ地震に遭った時
長い年月が経ったときその基礎に
厚みや密度、必要な時間をかけて施工し
正しく養生されてきたかがものを言う。

そのようなお話だった。

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タイ語レッスンからの徒然

 今日もタイ語のレッスンだったが、テキストの内容からどんどん話題が発展して行って、言葉だけでなく文化や歴史についても色々と学ぶことができるのが楽しい。

今回はテキストにあったパラゴム園(สวนยางพารา)という言葉から、チェンマイより少し南に下ったところにあるランプーンのお寺の話題になった。チェンマイとランプーンを結ぶ旧道にはトンヤーン(ต้นยาง)というフタバガキ科フタバガキ属の巨木の並木道があるからだ。(トンヤーンはゴムの木では無い)
こちらに詳細が↓
Dipterocarpus alatus /ヤーンナー :タイの植物チェンマイより

 

このトンヤーンはチェンマイのシンボルツリーでもあり、以前「ワット・チェディ・ルアン」に行ってその御神木を見上げた時のことを思い出したが、それが並木道になっていたらさぞ圧巻だろう。

先生ももし今住むとしたらチェンマイよりランプーンの街が静かで、昔ながらのタイの良さがあるので良いと仰っていらした。

来年チェンマイに行った際には、ぜひランプーンまで足を伸ばしてみたいと思った。

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また、お寺でのお詣りについての話題になった時、「暑い季節や暑い地域のお寺にいくと、みんな動きがすごく早いのよ。何故かわかる?」と先生が尋ねる。

タイのお寺では靴を脱いで仏塔の周りを3周歩いたりするからというヒントでぴーんときた。そう、足の裏が熱いのだ(笑)

私が行ったのは寒季の、しかも北部で比較的涼しいチェンマイだったからドイステープで同様のお詣りをした時もそれほど熱い思いはしなかったが、熱さを我慢しつつ早足でお詣りする光景にはタイ人の先生でも思わず笑ってしまったそうだ。

しかし、そう考えてみると修行僧はスゴイと改めて思う。

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今日のタイ語は、そのような流れから話題になった天灯(โคมลอย)について書いた文を。

 

ปีนี้ในตัวเมืองเชียงใหม่ห้ามปล่อยโคมลอยในคืนลอยกระทง

 

今年、チェンマイの旧市街ではローイカトン(日本でいう灯籠流しのような伝統行事で毎年11月の満月の日に行われる)の晩の天灯(โคมลอย)が禁止になった

というような内容だが、私はローイカトン祭りで川にカトン(灯篭)を流したことはあるものの、このโคมลอยは経験がなく、ぜひ一度観てみたいと思っていただけに、何故かと伺ったらやはり危険だということで、火事になったりするケースもあるそうで、実際先生のチェンマイのご友人もそれで火事に遭ったそうだ。

美しい光景だし、その行事によるビジネス効果のような側面もあるそうだが、発展し住人や観光客も多くなって規模が拡大してくると、やはり問題も大きくなってくるのだろう。

 

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動くことと絵と

小さい頃から、とにかく不器用だったという低学年のお子さんがいらっしゃるご家庭に、しばらく前から時々出張で伺って親子レッスンをしている。
体育など運動も苦手で嫌いなようだというお話だったが、お魚さんや動物さんのあくびをしてみようか?という感じで顎のワークなどに誘ってみると、面白がって動く。
首や肩に硬さはあるようだが、動くことが嫌いという訳ではなさそうだった。

まだ顎と手のワークしかしていないし、レッスンの回数もそれほど重ねた訳では無いが、お母様と一緒に毎日ワークを続けるうちに次第に硬さも和らいできてか、お口も最初の頃よりは随分開くようになってきた。

そうした中で、お子さんの描く絵が少しずつ変わりだしたようだとお母様が仰る。
それまでは自分から人の絵を描くことはなかったし、描いても首がなかったり、手足もすごく雑に描いていたのが、首を描くようになったり、不器用でも以前より丁寧さが感じられるのだそうだ。

そのお話を伺って、ミヒャエラ シュトラウスの『子どもの絵ことば』を思い出したりもしたが、子どもの描く絵にはやはり、その子の今が現れるものなのかもしれない。

体育の授業や、いわゆる「スポーツ」ばかりが動くことでは無い。
まずは「動く」ということの楽しさや気持ちよさ、それらを通じて変わっていく自分を発見する楽しみを経験して欲しいと願っている。

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昨日、川崎駅の近くで。

 

ある社会人の生徒さんからは、こんなお話を伺った。

今まで、何かを始めたりやろうとするときは、予めそれによって何が経験できるかを決めてかかっていたり、その自分の予想の枠だけで物事を捉えようとしていたけれど、それが自分の経験を狭めていたかもしれないと。

そしてそこには、わからないということが不安で、居心地が悪くて、既知のことに結びつけて安心したがる自分がいたのだろうと感じていらっしゃるというようなお話だった。

けれども、今は「わからない」という事態にも寛いでいらっしゃるのが感じられる。

レッスンの後に街を歩くのが楽しいそうだ。言葉では説明できないけれど違う感触が時折顔を出すとき、以前だったら、それに自分自身に対する説明をすぐに与えようとしていたが、今は「違う感触が出てきたな」とただそのままを感じていることが楽しいのだそうだ。

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ナチュラリゼーションを始めてから、1年に1度くらいのペースで歩行の動画を撮ってみている。

「歩き方」を学んでいる訳でも、歩き方を意識している訳でもないけれど、「歩くまでの動き」、つまり赤ちゃんの動きから再学習する中で、それも自ずと変化してきているのが、そのくらいのスパンで見ていくとよくわかる。

まだまだだけど、面白い。

 

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継続していくことには確かに能動的な意志があるのだけれど
その過程は能動と受動のどちらでも無いような
描き始めることで生まれてくる絵のような
綴り始めて生まれてくる文章のような
そんな感じなのだ。

そして、その行為の結果として
自分の中で何かが変わっているというのが
やはり面白い。

 

その人を変えていくのは

意志

昨夜は来月初めに舞台を控えた方のレッスンだった。
お仕事がとんでもなく忙しい中、バレエのお稽古の時間を捻出するだけでも大変な状況だけに、とにかく怪我や痛みなく気持ちよく本番を迎えられることを目指してきたが、その願い通り、良好なコンディションで最後の仕上げの時期に臨まれている。

 

バレエのお稽古の時間も十分には持てないので、お仕事でビルの中を移動するときは、エレベーターは使わず毎日階段で上り下りをしたりして、日常の中でのご自身の様々なコンディショニングの工夫あっての今だ。

だからといって、がむしゃらに「頑張って」いらした訳でもない。ご自身の体調を鑑みながら上手に調整もなさっていたし、例え貴重なお稽古の時でも身体のシグナルを感じたときは休む、加減するということもしながら冷静に自己管理なさっていた。

そういう姿に触れていると、レッスンは一助に過ぎず、その人を変えていくのはその人自身の「私はこうなっていく」という意志、そして行動によるものなのだということを改めて思う。

まだこれからが追い込みの時期だが、本番の日にはきっと素敵な笑顔で舞われることと思う。

 

 

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写真からシェイプのみを抽出した画像。
2018/1/19 と 2018/11/19

 

 

皇帝ダリア

今年も皇帝ダリア(キダチダリア)が美しく咲き始めた。
毎朝薔薇やシクラメンに水をあげるためにベランダに出るとき、増えているダリアの花を眺めるのも楽しみだ。

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晩秋から初冬にかけてのこの時期、大輪の薄紫の花が高く澄んだ空に伸びていく姿は本当に神々しいほど美しい。

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