動かしやすいと感じていたことは

実はそうではなかったのかもしれない

前回腹這いで進むワークを丁寧に行なっていった翌日のバレエのお稽古でのプリエの感触が全く違って驚いたというお話があった。
なんとなく「こなして」しまうと、忘れものには気付けずに通り過ぎてしまうが、立つ・歩く以前の過程で何か目覚めるものがあれば、そのずっと先の動きにもそんな風にひょっこり違う動きの選択肢が生じてきたりもする。

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昨日は寝返りも更に探求していった後に、少し脚を動かすということの中で目覚め始めた働き合いによって変わる動きの感触の違いを感じてみることもした。

それまで「動かしやすい」と感じていたことが、実はそうではなかったのかもしれないと、別様の動きを体験してみて感じられたそうだ。

 

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ハーブ

大神ファームさんから苗が届いた。

箱を開けるとホーリーバジルの爽やかな香りが広がる。

バジルを小さめのプランターに植え、もう一つ今回試しに育ててみて、良い感じだったら実家の庭のぶどうの木の下やアプローチに植えてみようかと思っているネペタ(キャットミント)も一株だけ小さな鉢に植えてみた。

ホーリーバジルの和名は神目箒(カミメボウキ)だが、バジルをさす目箒という言葉は日本に最初に輸入されたのは種子で、漢方の目薬として用いられたことに由来するらしい。

ホーリー、神、インドではトゥルシー(tulsi 比類なきもの)など名前からも古来から大切にされてきた植物だということが感じられる。

ちなみに、日本ではガパオと略して呼ばれるが、正確にはกระเพรา(グラプラオ)という二重子音のある言葉だ。

 

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ネペタを選んでみたのは、耐暑性・耐寒性・耐乾性があり育てやすく開花期も長いことや、父が大事に育てている紫のテッセンとも馴染みそうだからだが、まだ花がついていなくても葉っぱ自体も可愛らしい。

 

今週は仕事が続くのと娘夫婦の引っ越しもあるので、実家のなんちゃって庭師の作業はできないが、引っ越しの日程は決まったので月曜は母と共にご近所へご挨拶に。
お隣には可愛いボーダーコリーがいて、ワンちゃんとも初めましてのご挨拶をさせて戴いた。

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今日は実家の方はダンボールが届くが、娘夫婦の引っ越し日でもある。流石に臨月近くなって身動きが取りにくくなっているので、仕事の前に引っ越し後の荷出しや掃除を少し手伝う予定。

ピクチュア 父の日の徒然

一昨日草刈りをしながら家の中にもまだまだ手を入れる必要があるところはあるのに、なぜ私は庭に今重きを置いているのだろうとふと思った。

工事の妨げににならないようにと取り掛かったのがきっかけだ。
けれど、作業の合間にリビングに座り込んで光を浴びた緑やそれが床に映る光景を眺めていると、いつだったか京都で見た床緑の記憶も重なりながら、描きかけの一枚の大きな絵のような気がしてきた。

絵のように見えだすと、そこに両親が食卓についた情景がシルエットで重なり、この眺めがこれからの両親の暮らしのスクリーンになるんだ…と改めて思うと、無性にキャンバスに向き合いたくなる時みたいに、突き動かされるような何かが私の中に生じた。
その「何か」がわかるようなわからないようなまま、ここ暫くを過ごしたのだけれど、昨夜一冊の本を読みながら、それは多分両親の「ピクチュア」の背景を、安らかな眺めにしたいからなのかもしれないと感じた。

 

鷲田清一氏の『想像のレッスン』という本の中にその「ピクチュア」という言葉が出てくる。

つまり、人間の記憶というのは、縦並びから横並びへと徐々に変わってゆく。記憶は、若いあいだは何がどの年に起こったかが克明に記憶されるクロノロジー(年代記)のかたちをとるが、やがてだいたいあの頃というふうに前後の秩序だけがはっきりしているパースペクティヴ(遠近法)に移行し、最後は遠近もさだかでない一枚のピクチュア(絵)になるというのだ。

 

世界がそのように「一枚のピクチュア」になったとき、じぶんがこれまでかかわってきたひとたちはそこにどのように映るのだろう。毎日、家族や友人など同じ人物を描き、彫りつづけたあのジャコメッティの言葉を思い出そう。「偉大な冒険とは、同じ顔のなかに日ごと見知らぬ者が現れるのを見ることだ」。たくさんの顔を知っていることが人の「実力」なのではなくて、ひとつの同じ顔のなかから「日ごと見知らぬ者が現れるのを見る」ことこそが「偉大な冒険」なのだとしたら、記憶が薄れ、耄碌するのもわるくはない。その人との切っても切れぬ因縁ではなくて、自由な出会いがそこに日ごと生まれるのだとしたら。人はしかし、それをまだ「呆け」としか口にできていない。そう、「お城」が見えないままだ。

鷲田清一『想像のレッスン』 (ちくま文庫)

 

母はまだしっかりしているし、父も身体は色々おぼつかなくなっているものの、手前の「遠近法」くらいの眺めかな^^;とは感じているが、何れにしても彼ら自身私ぐらいの年齢からこちらに越してくるまでの長い時間の多くを介護に費やしてきたので、終の住処になるであろう場とそこでの時間くらいは、もう転居という不安も無い居心地の良い空間で、時にはケンカもしながら日々の自由な出会いを楽しみつつ過ごして欲しいと思う。

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 中学生の頃からずっと祖父母や父方の伯母、そしてかつては伯父夫婦、今は両家の親と身近に「老い」があったが、自分自身が年齢を重ねるごとにその見え方も変わってきた。まだとりあえずは未体験の(片足は突っ込んでるかな^^;)人生のフェーズだが、様々な老いの姿を思い返したりもしながら、渦中は色々あったにせよそれら全ての遠近法の時間、ピクチュアの時間が尊く、そして愛おしく感じる気持ちが増していく。

年代記の時間、遠近法の時間、ピクチュアの時間というのは多分、どこかでクッキリ線引きできるように変わっていくものではなく、少しずつクロスフェードするように移ろっていくもののような気がする。

縦並びの時間しか知らないうちは、それ以降の眺めから生じてくるちょっと辿々しくなって、要領を得ないような言葉の組み立て方や思考の視野が狭まったような言動に、周囲は苛立ちを覚えたりするのは、例えば父と母の会話や義父と夫の会話などを聴いていても、またかつての父と祖父との会話の風景などを思い返しても感じたりするが、時間がばらけ、奥行きが違う世界の眺めを想像してみると何となくそこにも秩序のようなものがあるようにも思える。

そして、それが近い身内であるほど、自分には見えない世界に入っていってしまいそうなその人に取り残されたような寂しさも、苛立ちの背景にはあるのかもしれない。

 

時折思い出したように怒涛のごとく送られてくる父の自分史、家系史?ショートメールに「やれやれ」と思うこともあるけれど、その遠近法の眺めを娘と共有したかったのだろうなとも感じると、なんだかそれもわるく無いというか、微笑ましい面倒臭さ(笑)だという気がしてくる。

私の見えていないその世界を、まだまだ語り続けて下さいねと心で呟く父の日。

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巡る「場」

昨日両親の転居先に行って、今まだ唯一ある庭園灯の修理をしていると微かに芳香が漂ってくることに気付いた。
2週間前にはただ鬱蒼としていた樹の上の方だけに白い花が咲いていて、その樹はクチナシだったようだ。そういえばその実らしきものがアプローチにも落ちていた。

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これまで暫くあまり手入れされていなかったのでだいぶ傷んでしまっているが、これから少しずつケアをしていくと、もっとたくさん花を咲かせてくれるかな。心臓を患って以来少しずつ出かけることや歩くこともなくなってきている父だが、香木が嗅覚にも季節感を与えてくれそうだし、足元をもう少し整えていけば時折預けるアド🐶と共に庭に出る楽しみも生じるかもしれない。木陰に小さなベンチでも置こうかなどと思ったりも。

庭園灯も何とか使えそうなので、新たに買い足したソーラー式のパスライトも適宜加えていけば、夜間もほんのり明るいアプローチの眺めになるかと思う。

 

リフォームを手がけて下さった業者さんが作業中の記録写真を持ってきて下さったが、昔伯父が裏に植えた竹(その後義父が苦労して抜いたらしい)の根が、既に枯れてはいたが床下まで入り込んでいたそうだ^^;竹おそるべし。

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床材も当初入っていたものより明るめの色にしてもらったので雰囲気も明るくなってきた。

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老後のことを考え鎌倉の家を手放してこちらの方に越してきて以来住まっていた家の大家さんが、介護やご自身の体調不良もあってその家を手放したいというお話があった時は、両親が新たに住まう場所を見つけるのは高齢ゆえに容易ではなかったから途方にくれたりもしたけれど、それと前後するようにそれまでここを借りて下さっていた方が転居することになって、古いけれど思い出のある家を手放したくない義父母や義妹の想いと、もう何かを所有したいという気持ちもなく慎ましやかに暮らして行ければ良いという両親の想いとが、うまく折り合う形で展開したのは、やはり何かの計らいのようにも思え本当にありがたく感じている。

 

今両親が住まっている家の隣の方は母と同じ歳で10年ほど前に夫君が他界なさってからは一人暮らしをなさっているが、二人はよく姉妹ですかと尋ねられるほどとても仲が良く、当初はその方も少なからずショックを感じられたようだ。けれど今は天気の良い日は母と一緒にこちらまで足を運んで掃除や庭の手入れを手伝って下さったりもして、そんな時間を楽しんでも下さっているそうだ。私たちもできることでサポートはしているが、私たちにはできないのが身内以外との交流の楽しみだから、住まう場が少し離れても、そうした関わりが途絶えることなく続いていきそうなことにも安堵や感謝を覚えるこの頃。

 

鬱蒼として青臭いような匂いに包まれていた古民家も、光や風、そして人の流れが巡るようになり、土や花や樹木の香りとともに「場」として息を吹き返してきているように感じる。

 

タイのニックネーム

タイ語レッスン

昨日は身体的特徴の話からニックネームについての話題になった。

タイ人の名前は長い^^;
だからオフィシャルな場合を除いては大抵ニックネームで紹介を受けたり、自己紹介されることが多いのだが、前回タイ人の友人からご紹介戴いたチェンマイの中国系タイ人の実業家の方についても、友人はウワン(อ้วน uân)さんと紹介してくれたのだが、つまりは「太っている」という意味なのだ。

親しい間柄の友人なら良いが、私たち初対面の人間がそう呼んでいいものやら、やはり躊躇したことがあったから、そういう場合はどうなんだと尋ねた。

実際、ティア(เตี้ย tîa)背が低いなど身体的特徴がニックネームになっていることも結構ある。

先生によると、そこはタイ人同士でもさり気なく確認するらしい。親がつけたとか幼少期からそのニックネームで呼ばれているような場合はOK、でも大人になってごく親しい友人がそう呼び合っているようなケースではNGなのだそうだ^^;

で、どう確認するのかというと親御さんもそう呼んでいるのですか?とか、小さい頃からそう呼ばれているのですかなどと、やんわり伺うらしい。

あーややこしい^^;、が、とりあえずまたひとつ疑問が晴れた。
ストレートに私たちは何とお呼びしたら良いですかと尋ねてしまう方が早いかもしれないが。

 

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今回は聴きやすいように朗読するという宿題があって、練習するのにテキストを持ち歩くのも重いから写真に撮っていたのだが、タイ語の長文はこのくらい文字が小さめである程度先までのセンテンスが見渡せた方が私は読み良いようだ。

 

タイの食材

タイ料理の食材はだいぶ手に入りやすくなったが、ガパオライスでもお馴染みのバイ・ガパオ=ホーリーバジルはやはりフレッシュなハーブを用いた方が断然美味しい。が、なかなか身近なスーパーなどでは手に入らないので、大神ファームさんから苗を取寄せて育ててみることにした。

www.ogafarm.co.jp

 

チェンマイに足繁く通うようになって、北タイのハーブ使いのセンスに魅せられることが多い。日本で入手できるものは色々育ててみたいが、自宅の庭は義父のテリトリーなので^^;、まずは鉢植えから、そしてどのみちちょくちょくフォローには行く必要がある実家の転居先の庭の一角をちょっと拝借しようかとちゃっかり企てているフシも。

さて、今日もなんちゃって庭師の1日だ。が、結構楽しい。

徒然

まっさら

昨日は代々木と和泉多摩川でのレッスン。

3月からスタートしたお箏のお仲間でのグループレッスンでは、稽古を重ねて師となるまで極めていらした方の学びの姿勢というか、新しい物事への取り組みの様子がまるで幼子のように「まっさら」だなと感心する事が多かったが、何かを急いでモノにしようとか、分かろうとすることなく、また間違うことできないことに対する時も自然体であるそのありようと、ナチュラリゼーションの浸透は比例するのかもしれないと回を重ねるごとに感じる。昨日も前回から1ヶ月の間のその動きの変化には目を見張るものがあった。

そのグループの中には、ある程度経験を重ねていらしたバレエの方もいらっしゃり、その方もまたその様子から感じ入られることがあったのかなんかやはり素直さとかとても大事ですね

なんかやはり素直さとかとても大事ですね🙂

 と仰っていらした。

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夢現の名残

昨夜はまた、ちょっと面白いことがあった。
寝転がって文庫本を読んでいる間に30分ほど寝落ちてしまったのだと思うが、そこから覚醒してくるまでの夢現のなかで、何か自分が身体を動かしているということだけは感じていた。肌寒さの感触とともにようやく意識がはっきりしてきて「あー、いかんいかん」などと思いながらすぐにちゃんと床に入ったのだが、床に入ってみて何やら妙に胸椎下部のあたりの動きの良さや呼吸の深まりに「おやっ?」と驚いた。

が、自分では何をしていたのかどうにも思い出せない^^;
夢現の中では自分が動かしているという感触もあったのだが、夢を見ていた感触はあるのだが思い出せない夢のように、その名残のような軽やかさが確かに身体に残っているのが面白かった。

思い出せないのが残念だが(笑)「私」が邪魔しないその何らかの動きの中で、また少し解き放たれるものがあったようだ。

 

個展

大森牧子さんから個展のご案内が届いた。
そこに載っている19-12という作品、言葉で意味付けなどしないことろが大森さんらしいなと感じながら、重なる色彩の美を味わった。

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足もとにあるもの

レッスンが終わる頃、グラン・ポール・ド・ブラで注意されたことがあって、どうやったらいいのか分からないと仰る生徒さんがいらした。

でも、そのヒントもナチュラリゼーションの動きの中にある。
サークル状の動きの中で上半身が前後左右、あるいは斜めどちらに傾こうが、基本は立つという要素とアン・オーだ。

ちょっと動いてみてもらうと、苦手と仰るそのフェーズにはその日這う動きや寝返りの中で指摘した課題と同じ要素が抜けている。

何かバレエの中での課題に出合った時、そのバレエの動きとして答えを探すことに前のめりになると、既に足もとにあるヒントに気付けない。

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久しぶりに雨が上がり、覗いた空は既に夏の表情。
Glazunov - The Seasonsの夏の曲を聴きたくなった。

エレーヌは今年2度目の開花。

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少しずつ場を整える

実家の転居先のリフォームも済んで、本格的な引っ越しの前に少しずつ物を運んだり、掃除をしたり、行く都度庭の動線確保の草刈りをしているようなこの頃^^;

かつて伯父伯母が暮らしていた平屋の古い建物だが、高齢者2人の住まいにはむしろ日常的な階段の上り下りは無い方が安心だし、庭も時間をかけながら少しずつ手入れしていけば風情ある眺めや鳥の囀りを楽しめるだろうと思う。

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骨董好きだった父方の祖父がS25年位に購入し、電燈として使えるように修理した行燈もいい感じで馴染んだ。

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雑草が膝まで伸びていた庭もとりあえず歩けるようにはしたが、(刈った草は45Lのポリ袋に20袋くらいになった^^;)、引っ越しが終わってから少しずつかつてのような芝に戻す作業をしていこうかと。

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とにかく先ずは歩く事がだいぶ危なっかしい父が歩く通路を確保する事が優先。
あとは設置の簡単なガーデンライトを見繕ってきて、夜間の視界の確保と防犯対策かな。

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