チェンマイにて

怒涛のスケジュールではあったけれど、友人のサポートのお陰でタイでの所用も全て順調に事が運び、到着した日と翌日の2日間で今回やるべき事を全てし終える事が出来たので、今日は1日ゆっくりとチェンマイでの時間を楽しめる事になった。

それにしても、これまでも何か事が進む時の常でもあったのだが、またしても11という数字が鍵になったのが面白い。

 

また、友人を介して、タイ人の方以外に、こちらに在住中の方や起業準備も兼ねてシーズンステイの方、また帰国したけれどこちらで農業の技術指導のボランティア活動や山岳民族の子どもたちの支援活動を続けている日本人の方々などと共に過ごす機会にも恵まれて、皆で温泉に行ったり、食事をしたりと思いがけず賑やかで楽しい時間も過ごすことができた。

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チェンマイの今の気温は19〜25℃位で、最も爽やかな季節。

温泉からの帰り道には美しい夕暮れの風景にも出合えたり、先月タイ語の先生との話題に出てきたランプーンまで続く旧街道の巨木の並木道を通過できたりも。

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Move

今年は色々な意味で「Move」の年なのか、新年に入ってから家族の案件も含め不動産会社や建築会社の方々と会う機会が多い。それらに関して私はいわばオブザーバー的な立ち位置なのだが、それぞれ別の3つの案件が同時進行している感じなので、仕事の合間になんだかんだと出歩いていた1週間ほどだった。

当事者とは、少し違った角度からそれらの「流れ」やそれぞれの視点や捉え方、物事の詰め方というようなものを見ていると、感じることも学ぶことも多々ある。

 

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以前もご紹介させて戴いたことがあるかもしれないが、「Move」という言葉が思い浮かぶ時、いつも読み返す長田弘さんの言葉がある。

 

いま、ここにあるという感覚を鋭くする。 そのために必要なのは、じぶんに必要なだけの疑いを、いつもいま、ここにちゃんとおくことだ。 疑いのない停滞に、自分を暗く閉じこめないために、みずから疑う。 疑うことによって、じぶんがいま、ここにいっそう明るくされるようにする。 疑うというのは、ほんとうは自分を明るくしてゆくことだ。 他人の正義をあてにしないことだ。 疑いによって、自分を開く。 疑いのなかで、自分をいっそう確かにしてゆく。 疑うというのは、moveという感覚を、身に生き生きとたもつということだ。
(長田弘 『感受性の領分』 神の派遣したスパイ51 より)

 

来週は、ちょっとタイへ。

 

今週の眺め

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またまたお菓子を戴きました。ありがとうございます🙇‍♀️

既知だと思っていたことを一旦未知に戻して

寝返りに何か課題を見つけたら
その前の段階に戻ってみると
そこにはいつも何らかの発見がある。

赤ちゃんの寝返りが成功する前に行われているのは何か。

側臥位の感覚を疑ってみる。

環境と自分との関係
体幹と四肢の関節の屈伸状態
感じていることが正しいとは限らない。

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左は私が修正したもの、右はご本人が真っ直ぐと感じるポジション。
右を下にした時はこれほどの差はないが、その違いの「何故?」を考えながら、身体を感じていくことも面白い。

左のように修正されても、ご本人はかなり違和感があり「自分の体がどうなっているのか全然わからない〜」と仰る。

でも、そういう時の違和感や戸惑いは必ずしも「悪者」ではない。

既知だと思っていたことを一旦未知に戻して、その戸惑いの最中にも学習は進行している。

そうして学習し直した後の寝返りはまた少し変わってくる。

 

表現したことが振る舞う場

先日注文したバルザックの『風俗のパトロジー』が届いた。

早速ページをめくりながら、うん、確かに面白いとフラヌール(Flaneur/遊歩者)バルザックの精緻で風刺の効いたその言葉に時折「ニヤリ」としたりもしつつ読んでいる。

タイトルだけでもある程度楽しめるかもしれない。

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もう一つ、最近入手したのがこちら。

『薔薇の鉄索: 村上芳正画集』

三島由紀夫をはじめ、数多くの作家の本の装丁を手がけておられるが、氏の装丁した本は私の手元にはこれまで多田智満子さんの詩集『薔薇宇宙』しかなかった。
が、どこか気になるアーティストだった。

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インターネット上を見てもあまり記事は多くないようだったが、

作品の内容に思い入れがなかったからこそ、美的な幻想世界を冷静に絵として対象化できた

という言葉に、「描く」ことを仕事にしている上の娘の姿やスタンスがどこか重なるようにも思え、「その人」をもう少し知りたいと感じたのと、娘とも共に観ることができればと思った。

娘も、おそらく彼女が描きたい世界とは必ずしも同じではないものを描くことが多いのではないかと思うし、今はその先の何かを見出したようだが、以前は「もう、描くのが好きではなくなった」と言っているような時期もあったから。

 

www.museum.or.jp

 

対象との距離、あるいは隙間が無いと圧倒されはしても多分読者がその世界に入り込む余地がない。
本の装丁とはそういう距離感が必要なのだろう。
いや、きっと装丁の仕事に限らず。
表現とは、表現されたものが「振る舞う」場、つまり人と人との間で生まれるものなのではないだろうかと感じたりもしつつ、長田弘氏の言葉がそこに重なったりもした。

個人の才能をことさらに信じない。人びとがいま、ここにつくっている日々の言葉のなかに、一人のわたしがどんな姿勢で立っているかを、詩の言葉はのぞもうとのぞむまいとはっきり明かす。詩の言葉は、一人のわたしの感情のやり場ではない。詩の言葉はじぶん一人だけで書ける、そういう言葉でなく、詩を書かない他の人びとの言葉にいつも助けられながら書く、そういう言葉にすぎない。
長田弘『感受性の領分』

 

やりくり

本来その機能を果たす部位とは別の部位が、その機能を補完するように働くことを「代償」と表したりもするが、私はどうも「償」という文字が使われることに違和感がある。

「償う」「犠牲になる」そのようなマイナスのイメージがどうしても重なってくるから。

もちろんそれは好ましいことではないが、言わば身体は懸命に「やりくり」をしてきてくれていたのだと考えた時、その働きを責めるような気持ちになるだろうか。

動きを見直していくと、知らず識らずのうちの「肩代わり」のような働きに気付くことはよくある。

その時、それを「ダメなこと」や「ダメな自分」と、どこか批判的に捉えるよりも、その「やりくり」に労うような想いとともに、本来の働きや活きへとバトンタッチしていけるよう対話をしていきたいものだと思う。

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まだまだ掘り下げていけることがある

1月の自習会も終了。
6名で動くには決して広くはないスペースだけれど、そのスペース感がまた違ったコミュニケーションを生み出したりする面もあるように感じた。

ハイハイ用膝座布団を手作りなさっている方も。

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可愛いお菓子も頂戴しました。ありがとうございます☺️

 

冬休みの間の宿題として試してみて戴いた胸郭の動きを繊細に感じていくワークを通じて、視知覚に関して気付きを得た方もいらしたようだ。

そう、赤ちゃんは「寝返りやハイハイの動き」の中で体幹や四肢の協調だけでなく、視知覚もまた発達させている。

フェルデンクライスのFIでも眼球の動きとを整合させていくようなワークがあったり、発達支援の領域のメソッドにもそうしたメニューが多くあるが、案外自分がどのように「視ている」かには気付いていなかったりもするものだと思う。

予めそうした話をしたわけでもないが、そうして自身で気付いていったことが、寝返りやハイハイの動きの中でもまだまだ掘り下げていけることがあるという感触にも、取り組みへの別様の視点となっていく面もあるのではないだろうか。

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梢には春を待つ可愛らしい膨らみ。