かんがふ

意味の獲得は、同時に
ともすれば失うことでもあり得る
ということに無自覚になってしまうのは
勿体ないと思うのです。

しばらく前のブログに綴ったら
鷲田清一氏のこの言葉を思い出したと
ある方がメールして下さいました。

ひとが勉強をするのは、それこそ逆説的な物言いになるが、わからないという事態に耐え抜くことのできる知性の体力をつけるためではないのか。
「おとなの背中」 鷲田 清一

子どもの頃は誰もがその「体力」を持っているのに
何かを学び、何かを得るごとに
むしろその「体力」は柔軟性を欠いていく。

しなやかに学び続けていくためには
やはりその自覚が必要なのだろうと。

 

意味を見出すごとに
でも、その意味と言う記号を排しても
同じ動きを繰り返し、味わう。

昨日、自然を眺める目について綴りましたが
それが私にとっての
自然に対する学びの態度なのかもしれません。

 

鷲田氏と言えば、いくつか著書を拝読していますが
もうひとつ、氏の言葉で
私の印象に残っているものがありますので
今日はそれを最後にご紹介させて戴きます。

理 (ことわり =言割り ) 、それも精密に精密に分析すること ― ―ちなみに 、 scienceということばは 、 secoつまり分けるというラテン語の動詞からきている 、つまりそれはなによりも分析をこととするのである ― ― 、それがその限界にぶち当たったその場所ではじめて 、ほんとうの意味で 「かんがふ 」ことがはじまる 、とわたしはこの詩人のことばを受けとめた 。
鷲田清一「聴くことの力」

 

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