縁側

普段、雑誌類は殆ど買わないけれど、ミシマ社という出版社から出ている「ちゃぶ台」というユニークな名前の雑誌で、「教育×地元」がテーマになっており、編集部の以下の記事に書かれていることに共感を覚えるところが多かったので、取り寄せてみることにしました。

 

 

常に同じ空間にいるわけではない。かといって、ネット空間で共生しているわけでもない。
 リアルな場所でも、ネットという消費空間でもなく、次の時代へ向かうという「行為」を通じてつながりあう地元意識。

ああ、そうそう、この感じ。
土地や既成の共同体に縛られた感じではなく
今を生きるそれぞれの志に、縁側や軒下があるみたいな。
(意味がわかり難い表現かな…^^;)
それぞれが、種類の違う種を持っているのだけど
育んでいきたい、伝えていきたいという
その源にある大切なことには通ずるところがあって
利害関係でもなく、閉ざされてもいない
他者とも交わり得る意識の縁側があるとでもいうのか…。
(うーん、もっとわかり難いかも^^;)

 

上記の記事の中で、内田樹氏の「街場の教育論」が取り上げられていたので、その本から心に残っている一節を。

 

先生の言うことは論理的には“おかしい”のだけれど、実感としてはきわめて切実である。それでいいのです。教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない。言うことが矛盾しているのだが、どちらの言い分も半分本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としてはいちばんよい感化をもたらす。そういうものです。きれいに理屈が通っている、すっきりしている先生じゃダメなんです。それでは子どもは育たない。成熟は葛藤を通じて果たされるからです。それ以外に子どもが成熟する契機はありません。

 

教師がひとりの個人として何ものであるか、ということは教育が機能する上で、ほとんど関与しない。問題は教師と子どもたちの「関係」であり、その関係が成立してさえいれば、子どもたちは学ぶべきものを自分で学び、成熟すべき道を自分で歩んでゆく。極端なことを言えば、教壇の上には誰が立っていても構わない。そうではないかと思います。

「街場の教育論」内田樹/ミシマ社

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