聴く

本当に「聴いている」人の前では、例え普段話すことが全然できていない人間ですら声は引き出される。本当に身体に直、作用するのだ。言葉じゃない。だって、あの時交わされた言葉はとおりゃんせの歌詞でしかなかったのだから。
でも、確かに相手は聴いてくれているのだという感触の暖かさ、奥行きに引き出されるように、身体から直、声が生まれていった。
表現塾での日野先生と差し向かいで感じたあの「相手が聴いている」という感触は、たった一度でも生涯忘れられない体験だと思う。

声は身体に作用する | 日野晃のさむらいなこころ

一度体験したきりの私自身の「話す」「聴く」は、当然未だ全くできていないが、残念ながらあの日野先生の質のような懐を感じる「聴く」にも、それ以降まだ一度もであっていない。

というより、自分ができないからなのだろうが。
それでも、それだけ自らの表面や思考の中だけで言葉を踊らせて、その自らの言葉にささくれ立ったり、浮き足立ったりしているのが今の時代の私たちのようにも思う。

でも、あの「聴く」をヒトとして取り戻すことが、この赤子に戻るようなプロセスの果てにあるのかもしれないと感じてもいるし、その「聴く」から始まる対話によって、声も自ずと「届く」ようになるのだろうと、あの体験の時につくづく感じた。
そして、それ無しに私の願うダンスにも多分至れないのだと思う。

この記事を見て、思い出した長田さんの詩がある。

声をあげて、泣くことを覚えた。
泣きつづけて、黙ることを覚えた。
両の掌をしっかりと握りしめ、
まぶたを静かに閉じることも覚えた。
穏やかに眠ることを覚えた。
ふっと目を開けて、人の顔を
じーっと見つめることも覚えた。
そして、幼い子は微笑んだ。

この世で人が最初に覚える
ことばではないことばが、微笑だ。
人を人たらしめる、古い古い原初のことば。
人がほんとうに幸福でいられるのは、おそらくは、
何かを覚えることがただ微笑だけをもたらす、
幼いときの、何一つ覚えてもいない、
ほんのわずかなあいだだけなのだと思う。

立つこと。 歩くこと。 立ちどまること。
ここからそこへ、一人でゆくこと。
できなかったことが、できるようになること。
何かを覚えることは、何かを得るということだろうか。
違う。 覚えることは、覚えて得るものよりも、
もっとずっと、多くのものを失うことだ。
人は、ことばを覚えて、幸福を失う。
そして覚えたことばと
おなじだけの悲しみを知る者になる。

まだことばを知らないので、幼い子は微笑む。
微笑むことしか知らないので、幼い子は微笑む。
もう微笑むことをしない人たちを見て、
幼い子は微笑む。 なぜ、長じて、人は
質さなくなるのか。 たとえ幸福を失っても、
人生はなお微笑するに足るだろうかと。

長田弘「幼い子は微笑む」

 さて、今日はキーをお返しする日。
見晴らしの良い1日になりそうだ。