現実の確かな手触り

サロンで使っていたバーや、いくつかの嵩張る荷物を当面保管しておくために小さなトランクルームを借り、オフの昨日はそこに荷物を運びこんだりと済ますべきことを済ますために半日を費やし、やっと一息ついた午後に読んだ本。

されど愛しきお妻様 「大人の発達障害」の妻と「脳が壊れた」僕の18年間 

ただ知識を駆使して書かれたのではない、現実の確かな手触り。
まずそれがあって、それを伝える言葉の力と俯瞰した視点、どれだけ現実に翻弄されてもその源にブレない愛があったからこそ描けたその内容に、久しぶりにノンストップで読了させられた骨太な1冊。
発達障害と高次脳機能障害というテーマを超えて、人と人が共生することについて、多くの示唆を与えてくれる。

また以下の文からは例えばレッスンの中でも「感じられない」という当事者感覚が自分の中で薄れてはいないだろうかと省みるような面もあった。

なんだ、視界に入る物を減らすことや、時間制限をつけて焦らせないなんてことは、発達障害の子どもの支援本には必ず書かれていることじゃないか。けれどあの物が「ふっと現れる」感覚や、焦ると思考がとまってなにも考えられなくなってしまう辛い感覚は、自身がそうなってみて初めて「どうにもならないものなのだ」と理解した。知識として知っていることと、本質的に理解していることの差を痛感しながら、考察と対策を深めていった。僕自身が抱えることになった障害と不自由さのほとんどが、お妻様の理解と家庭の改善作業へと、ダイナミックに展開していった。

 

だがここで自分でも呆れるのが、せっかく自身が当事者としての辛さを味わうことで、お妻様をはじめとする「不自由な人たち」の気持ちを本質的に理解できるようになったはずなのに、自身の障害が緩和されるに従って、その不自由の記憶や当事者感覚が驚くほどのスピードで失われることだ。それまでの社会的弱者への取材と執筆活動の中でも、「可視化されない苦しさに対する想像力の欠如こそが解消されぬ格差社会の元凶!!」などと暑苦しく主張してきたはずの僕が、ほんの少し前まで自分を苦しめていた痛みの感覚を忘れてしまう。当事者感覚とは、かくも脆弱なものなのだと思い知った。

 ボディワークに取り組み始める以前の、あの分断の感覚。
ある程度繋がり始めてもなお、残った空虚な部分を持て余した時間。
日常生活にはとりあえず支障が無いような小さな機能不全ですら、どれだけ心もとなさという影響を自らに与えていたか。

そんな空虚さの中に、ひとつずつ、少しずつ感覚が生まれ、それは例え「何かができる」に至っていなくても、本当は働けるものがそこにあるという、自分の一部を取り戻したような感動。あるのは感じられるようになっても、他の饒舌な働き合いに先を越されて「無いも同然」になってしまうときの無力感。じぶんを責めるような気持ち。

感じられずに「無かった」ものが「ある」に変わるきっかけも、それがひとつの機能として活き始めるプロセスも実に多様なのだと感じている。