もうひとつの「聴く」

肚で聴けば、それがどんな言葉であれその深度を感じられる。
そんな「聴く」を教えてくれた方がいる。
音と身体、動きについて教えてくれた師の師でもある方だ。

そんな風に聴くとき
表層を流れるだけの言葉は頚椎ぐらいまでしか響いてこず
やがて頸の後ろや肩甲骨の間あたりに
沈殿し張り付くような違和感があり
それはとても空しく、時に哀しい感触を伴うものだ。

それが話し言葉であれ、書き言葉であれ、
いかなる内容であれ、
肚から発せられた言葉は肚まで届き、
澄んだ音叉の響きの様に全身に広がって消えていく。

その響きが有から無になっていくところに、
むしろ言葉の力はあるように私は感じる。

言葉の塊として残っているのはアタマの記憶に過ぎず
アタマで記憶されたものには解釈というフィルターが
常につきまとう。

けれど、言葉としてのカタチを留めないほど
存在全てに浸透するかのようなものが
言葉の本当の力なのではないかと思う。

f:id:blissfultouch:20180216092228j:plain

先日、久しぶりにその方の声を聴いた。
朗らかな語り口に時に大笑いしつつも、
いつ聴いても肚に届く声だと感じる。

それは、言葉でも話術でもない
文字通り「肚を割った」ところから生じてくる声だからなのだろう。