透明な客観

今週末は石井ゆかりさんの闇鍋インタビュー・シリーズを通読。
こういう人と人との出会い方も面白いなと思う。

その中でも、この記事の「透明な客観」という言葉が印象に残った。


私の存じ上げている方にも、こんな印象を覚える方がいる。
ある編集者の方が、「その業界では稀に見る仕事がしやすい方」と評していらしたが、やはりそういう方には、出版以外でも様々なオファーが絶えない。事業も不思議とスムーズに道が開ける。
そして、まさにその方と過ごす時間は「澄明」という言葉がしっくりくる居心地なのだ。

それを感じるのは私だけではないようで、よくお坊さんですか?と尋ねられると仰っていらしたのもうなずける気がした。

 

私のような未熟者には
ジャッジや意味付けをしないということは困難だし
それが意識の本性のようにも感じるが
「してしまう自分」を知っていて、それも責めることなく
その二項対立的な思考の立ち位置から一歩引き
「自身への疑い」も含めた光に照らしなおしてみる
というプロセスのための隙間を開くということを大切にしている。

 

長田弘さんが、『記憶の作り方』という詩の中で、

「じぶんの記憶をよく耕すこと」

と表現していらっしゃるが
そうして、よく耕しながら記憶を刻み続けていくと
自分の物事の受け止め方も
その記憶の土台に立ったところでなされるようになって
自ずと変わっていく部分もあるし
ジャッジや意味付けをしている自分から離れるまでの
タイムラグも短くなっていくように感じている。

私にとって、そういう「すきま」は本当に大切なもので
例えば何かものごとや出来事や、人に対する気持ちも
むしろ暫く触れなくなって、余白ができて
もっとそのコトや人を意識は丁寧に感じているような
想いがブレずに向いているような感触があり
何かそういう時のほうが
人や物事の本質をキャッチしている気がする。

 

そういえば、そんなことをどこかで考えながら
こちらの記事を拝読している際に
まさにその長田氏の言葉が出てきて、ちょっと鳥肌が立った(笑)


同時に、
「ああ、長田さんの詩を読む方なのだ」と
ただ、身体や運動についての連載だからというだけでなく
何となくこの方の文章に惹かれる理由がそこにもあるように感じた。

 

先に挙げた石井さんの記事に書かれている、
「禅語」という本が手元にある。
井上博道氏の写真がとても美しく、石井さんの言葉と共に心に深く沁み渡ってくる大切にしてきた1冊だ。

禅語

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