祈り

最近ミシマガジンの記事からのポストばかりだが
もうすぐ読めなくなるかもと思うとやはり
感じたことを少しでも書き留めておきたくなる。
ミシマ社のマワシモノではございません(笑)


こちらは、とにかく共感の一言に尽きる。

・待つ姿勢
・積極的にこちらから探りにいかない
・この声を意図的に捕まえにいこうとすれば失敗する

このあたりはブンブン頷きながら拝読した。

先日もある方への返信に

進めない時はどうもがいても進めないのに
それでも背景では何かが渦巻きながら作用しあっていて
何か準備が整った時に、
ポーンと次の地平に放り出されるような感じがあります。

などと書いたばかりだった。

 

意図的に捕まえにいく方法ももちろんある。
それが間違いだという訳ではない。
だけど、散らばっているような感覚の欠片たちが
ひとつの再現性のある流れになっていくには
私にはそのやり方では上手くいかなかった。

むしろ、意図的にというのは
その身体の方から立ち上がってくる流れができてからである方が
本来の意図通りの結果も得られるのではないかと感じていたりもする。


が、その意図せず待つということが
やはり難しいところでもある。
個人差もあるが、大人の方の場合は特にご自身の中での
「何かを身につける」という運動学習の概念そのものを
根底から覆してみることができるかどうかで
だいぶ伸び方に違いが表れるように感じている。

難しいけれど、
むしろ半ば諦めかけたくらいになって
それでも淡々と続けていくうちに
上記のような事もあったりするから
やはりヒトの身体は未知数なのだと思う。

 

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そして、そんな風に身体や動きに出合いなおしていくうちに
生じてくるこのような言葉たちに
その方の中で広がったしなやかなスペースを感じる。

絵本の最後を先に見てしまわないように
行き先を探るようなこともしたくない。

 

私は少し自分の歩みは信じられるようになってきたのだと思います。
自信ということではなく
“祈り”のような意味で・・・。

 

そう、私にとってもその過程は
手段でも、方法でもなく
「祈り」なのだ。