身に合う

今回手放された「ブレーキ」は、私の動きをずいぶんと制限していたものであったことを、歩きながら、いくつかのバレエの動きをなぞりながら実感する。

その作用を考えれば至極当然のことなのだが、では、そこへのアプローチをしたことが無かったかといえば、そうではない。

身体に向き合い始めた何十年も昔から、むしろその初期から他力で、自力で、様々なかたちで働きかけたこともあった。
でも、今感じるような解放には成り得なかったのは、自分の中で「それ以外の準備」が整っていなかったからなのだろうと感じる。

「身に合う」プロセスを経て、身からの声によって、意識的に手助けをしたのはほんの僅かだけれど、もうそのあとは「あとは任せて」とばかりに、ただ歩くような日常の動作の中でさえその解放は進行していく。

人それぞれに身に合うものは違うだろう。
けれども、私にとってはやはり ナチュラリゼーションがそれだったということを、しみじみと実感している。

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「身に合う」という言葉を、改めて感じながら
風蘭の岡潔氏の言葉と共に
内田樹氏の解説の言葉を思い出す。

「身に合う」というのは、言葉は簡単だが、具体的にどういう選択や判定のプロセスを言うのかを説明するのはむずかしい。でも、「身に合う」というのは言い得て妙だ。「身に合う」は「好き」ということではない。「理解できる」とか「評価できる」ということでもない。「良い」でもないし、「正しい」でもない。まさに「身に合う」のである。自分が今成し遂げようとして心身の成長のために何が必要なのかは、自分でわかるし、自分にしかわからない。励ましが必要な場合もあるし、命令が必要な場合もあるし、保護が必要な場合もあるし、厳しい規律が必要な場合もある。自分の成熟のために必要なものを人間は直感できる。それが直感できないのは、岡の言葉を借りて言えば、修羅道に落ちてしまったからである。競争的環境における格付けによってしか、自分が何ものであるかを知り得なくなってしまったからである。単一の「ものさし」に自他をあてはめて、相対的な強弱勝敗優劣を競っている限り、何が自分の「身に合う」ものであるかはわからない。「身に合う」とは自分だけに適用できる、そのときだけに使える、オリジナルな「ものさし」によってわが身を衡量してはじめてわかることだからである。

岡潔「風蘭」 内田樹氏の解説より(角川ソフィア文庫)

風蘭 (角川ソフィア文庫)

 

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