歩いている今

早朝のウォーキングで色とりどりの紫陽花を眺めるのも楽しいこの頃。環境と個体差から生まれるそれぞれの色が美しい。

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ヒトが景色を見ながら歩くなんてことができるのも、その運動が自動化されているからだが、自動化されるまでの幼子の頃の過程を人は忘れてしまう。

昨今ではガジェットに意識を奪われ事故に遭うような問題もよく取り上げられるが、「歩いている今」という時間も、身体も、環境も、ずいぶんと希薄な時代になってしまったのかもしれないなと感じたような出来事が先日もあった。

電車に乗っている時にドアが閉まってもいつまでも発車しないことがあって、誰かがスマホを見ながら電車の傍を歩き続けていたからのようだったが、車掌さんが大声を出して注意しても、アナウンスが入っても、その方は全く気付かなかったようだ。混雑した時間帯でもなく、静かなホームであったにも関わらずだ。音も、ドアが閉まった電車がいつまでも発車しないという気配も感じられていなかったのだろうと思う。

 

 

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それを継続するかどうかは別としても、裸足やミニマルシューズで不整地を歩くという体験をしてみると、普段、どれだけ「今、この瞬間」或いは「ここ」にいないかということが感じられるのではないかと思う。

一歩を進めるごとに、足元から情報を得ているという実感。地面と対話している実感。そして、暫くそんな風に歩き続けた後の足裏の感覚の豊かさや歩きやすさを感じると、靴に守られ、凸凹の無い道を、心ここにあらずで歩いていた時間に失ってきたものもまた見えてくる。

スタジオの中だけで完結するようなものではないのがナチュラリゼーションなのではないだろうか。