週末の徒然

水天宮〜人形町

水天宮から人形町界隈を歩くのは七年ぶり位だろうか
社殿・社務所も建替られて当時とは随分と趣が変わっていた。

 小さな絵馬も戴いた。

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茶ノ木神社にもお参り。

水天宮駅のすぐ近くにある小さな神社で
布袋様が祀られている。

この写真は七年前の1月11日のもの。

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 当時のブログに引用させていただいたものの再掲だが

玄侑宗久「禅語遊心 (ちくま文庫)」の布袋和尚図の章に こんな言葉がある。

人助けでも何でもそうだが、自分で苦しいと思いながらしていることは、必ず心を汚す。「私がこんなにしてあげているのに」、だから感謝すべきだとか、それなのにあの人はぶらぶらしている、などと思ってしまうことは、この上なく人の心を汚すのである。
お釈迦様が六年の苦行を否定したのも、結局はそういうことだ。
自慢する気持ちや競争心、あるいは他人を批判する気分が芽生えるなら、そんなことはしない方がマシだ。その部分を模範的にこなしているのが、実は標題の布袋和尚なのである。
…中略…
ところで布袋和尚は、何がそんなに可笑しいのだろう。
おそらく和尚は、「あんたみたいな人もいるんだなぁ」と笑っているのではないかと思う。
自分とは違う在り方に触れたとき、年端もいかない頃にはひどく楽しかった気がする。しかしそのうち学校などで特定のモノサシによる仮の「正しさ」を仕込まれると、いつしか自分も仮のモノサシを絶対化して他人を測っていることに気づく。
ところが困ったことに、世の中で一番正しいのは誰にとっても自分である。そう思い込んだ人間同士が出逢っても笑いにはならないだろう。
…中略…
楽しまないで行われる善行は、されるほうにも迷惑だ。どだい善とか悪とかいう判断をやめたから、あらゆる人を笑って受け入れられるということだろう。
禅語遊心 (ちくま文庫)

釈契此(しゃくかいし)という実在した仏僧だとされるが、その臨終の際の

彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり)
時時示時分 時人自不識(時時に時人に示すも時人は自ら識らず)

という偈文から

実は布袋は弥勒菩薩の化身なのだという伝聞が広まったという。

弥勒は神仏というより、人の内にある「慈しみ」そのものなのではないかと思ったりもしながら手を合わせた。

 

歳月

公演後、出演していた知人とそのご家族も一緒に会食。
縁あってその方の舞台を拝見させていただくようになり、もう15年以上にもなるだろうか。その間の様々な出来事が話題になったり、まだ赤ちゃんの頃の記憶が新しいような気もするお子さんもすでに小学生だったりするところにも歳月を感じもしつつ、でも腕の動き一つで周囲の空気を変えるような真に美しい動きというのは時を経ても、何を踊っても色褪せることがないと思うし、むしろこれから魅せてくださるものが楽しみと思える方だ。

 

いつだったか、その恩師の先生方にお会いしたことがあり、いずれの先生も「他の人が休んでいる時に、一人でスタジオで練習していたことを覚えています。」と、そうした姿が印象に残っているというお話にもあった通り、資質・才能も無論豊かな方だが、「できないうちは進級できない」つまり「できないことはやらせない」という動きと精神の成熟をきちんと待つことができる教育の元、ご自身の地道な積み重ねによって丁寧に育まれたものが舞台上はもちろん日常の所作の隅々にまで浸透しているのだと、その方を観ているといつも思う。