表現したことが振る舞う場

先日注文したバルザックの『風俗のパトロジー』が届いた。

早速ページをめくりながら、うん、確かに面白いとフラヌール(Flaneur/遊歩者)バルザックの精緻で風刺の効いたその言葉に時折「ニヤリ」としたりもしつつ読んでいる。

タイトルだけでもある程度楽しめるかもしれない。

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もう一つ、最近入手したのがこちら。

『薔薇の鉄索: 村上芳正画集』

三島由紀夫をはじめ、数多くの作家の本の装丁を手がけておられるが、氏の装丁した本は私の手元にはこれまで多田智満子さんの詩集『薔薇宇宙』しかなかった。
が、どこか気になるアーティストだった。

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インターネット上を見てもあまり記事は多くないようだったが、

作品の内容に思い入れがなかったからこそ、美的な幻想世界を冷静に絵として対象化できた

という言葉に、「描く」ことを仕事にしている上の娘の姿やスタンスがどこか重なるようにも思え、「その人」をもう少し知りたいと感じたのと、娘とも共に観ることができればと思った。

娘も、おそらく彼女が描きたい世界とは必ずしも同じではないものを描くことが多いのではないかと思うし、今はその先の何かを見出したようだが、以前は「もう、描くのが好きではなくなった」と言っているような時期もあったから。

 

www.museum.or.jp

 

対象との距離、あるいは隙間が無いと圧倒されはしても多分読者がその世界に入り込む余地がない。
本の装丁とはそういう距離感が必要なのだろう。
いや、きっと装丁の仕事に限らず。
表現とは、表現されたものが「振る舞う」場、つまり人と人との間で生まれるものなのではないだろうかと感じたりもしつつ、長田弘氏の言葉がそこに重なったりもした。

個人の才能をことさらに信じない。人びとがいま、ここにつくっている日々の言葉のなかに、一人のわたしがどんな姿勢で立っているかを、詩の言葉はのぞもうとのぞむまいとはっきり明かす。詩の言葉は、一人のわたしの感情のやり場ではない。詩の言葉はじぶん一人だけで書ける、そういう言葉でなく、詩を書かない他の人びとの言葉にいつも助けられながら書く、そういう言葉にすぎない。
長田弘『感受性の領分』